アルナーチャラ便り
2019年1月 第9号

第139回を迎えたバガヴァーン・シュリー・ラマナマハルシの今回のジャヤンティ(生誕祭)は、折しも12月24日のクリスマス・イブと重なり、帰依者の喜びもまた一入(ひとしお)でした。美しい装飾が施されたアーシュラムは、バガヴァーンの生誕を祝うインド内外からの帰依者、参拝者で埋め尽くされました。年を追うごとにジャヤンティを詣でる人々の数は増え続け、一年で一番涼しいはずのこの季節のアーシュラムも熱気を帯びます。

毎年のジャヤンティは陰暦で算出されますが、ラマナアシュラムでは月毎の生誕日も祝われています。これは、日本の宿曜術の元になったインド占星学の27のナクシャトラ(月の星座)に基づくものですが、バガヴァーンのナクシャトラであるプナルヴァスに月が入った日には、毎月バガヴァーンへの讃歌が特別に帰依者たちによって謳われ、アーシュラムのダイニング・ホールではすべての来訪者にランチ・プラサードが振舞われます。

1月に入って15日~17日は、牛や玄関先に美しい色粉を施して収穫を祝うポンガル祭、20日にはチンナスワミのアーラーダナ(命日)と行事が続きます。

チンナスワミはバガヴァーンの実弟で、初代のサルヴァーディカーリー(アーシュラム会長)を務めた方です。生誕祭が陰暦で祝われるのに対して、命日は毎年同じ陽暦で行われます。そのため奇しくも今年1月のバガヴァーンのプナルヴァスは、チンナスワミの命日と同じ1月20日と重なります。

(T.D.)

目次


珠玉の言葉 真我実現(1)

実現と呼ばれる状態は、単に自分自身であることで、何かを知っているとか、何かになるということではありません。悟っている人は、ただ“それ”だけであり、常にそうであったものであるだけなのです。その状態を描写することはできません。ただ“それ”であるだけなのです。ただもっと良い言葉がないので、私達は真我実現について漫然と語っているのです。

“ある”のは、平安です。私達に必要なのは、静かにあることだけです。私達は、自分の本質である平安を損なっているのです。求められるのは、平安を損なうのをやめることです。例えば、ホールには空間があります。私達が新たに空間を作り出していくのではありません。私達が様々な物で場所を埋め尽くしているのです。空間が欲しければ、必要なのは、こうした物をすべて取り除くことです。同様に、ガラクタを心からすべて取り除けば、平安が現れるでしょう。平安を妨げているものが取り除かれねばなりません。平安が唯一の実在なのです。

ムクティすなわち解放は、私達の本質であり、私達の別名です。ですから、私達がムクティを望むのは、非常に可笑しなことなのです。ちょうど自分から進んで木陰から日なたに出て行った男が、酷暑に耐えかねて、大変な悪戦苦闘の末にまた木陰に戻ってきて、「とうとう木陰に辿り着いた。なんて気持ちが良いんだろう!」と喜ぶようなものです。私達はまさにこれと同じことをしているのです。私達は実在に他ならないのに、別のものだと想像しているのです。すなわちベーダ・バーヴァ(別のものだという感覚)を作り出しておいて、それからベーダ・バーヴァを取り除くための大変なサーダナを経て、一体性を悟るのです。どうしてベーダ・バーヴァを想像して作り出しておいてから、それを壊すのでしょうか?

悟りについて語るのは、虚仮です。悟る何があるのでしょうか?現実は常にありのままなのです。それをどう悟るのでしょうか?求められるすべては、このことなのです。私達は非実在を悟っているのです。すなわち非実在を“実在”と見なしているのです。この態度は捨てねばなりません。ギャーナに至るのに求められるすべては、このことなのです。新しいものを作り出したり、以前持たなかったものを獲得したりするのではありません。書物に示されているのは、このことです。私達は井戸を掘って、大きな穴を作ります。穴あるいは井戸の中のアーカーシャ(空間)は、私達が作ったのではありません。そこにあるアーカーシャを埋めていた土をただ取り除いただけなのです。その時そこにあったアーカーシャは、今もそこにあるのです。同様に、私達の中にある積年のサンスカーラ(生来の傾向)をすべて捨て去るだけでいいのです。それがすべて捨てられた時、真我だけが輝くでしょう。

努力と選択のない気づきが、私達の“真の状態”です。“それ”に至るか、“それ”の中にあることができるならば、結構なことです。しかし、努力、すなわち意図的な瞑想という努力をすることなしには、“それ”に至ることはできません。積年のヴァーサナー(潜在的な傾向)のすべてが心を外へと運び出し、外部の対象へと向けさせます。こうした想念がすべて捨て去られて、心が内に向かわねばなりません。ほとんどの人に努力は必要です。もちろん、どの人も、どの本も“スンマ・イル(静かにありなさい)”と教えていますが、これは簡単なことではありません。だからこうしたあらゆる努力が必要なのです。“スンマ・イル”が暗示するマウナ(沈黙)すなわち至高の状態に努力なく至った人を見つけたとしても、これは前世で必要な努力がすでに完了していたと見ることです。こうした無努力と無選択の気づきは、意図的な瞑想の後にのみ至ることができるのです。

自我すなわち心が殺されると、その結果は単なる空白であって幸福ではないことを、人々は恐れています。実際には、思考者、思考の対象、思考することが、意識であり至福そのものである源にすべて溶け込むので、その状態は不活発でも空白でもありません。すべての想念が止んで、心が殺された状態を、なぜ人々が恐れるのか、私には分かりません。毎日誰もが眠りの中で経験している状態なのですから。眠りの中には、心も想念もありません。それでも眠りから覚めると、「幸せに眠った」と言うのです。眠りは誰にとっても非常に親密なもので、王子であれ乞食であれ、眠りなしにはいられないのです。

真我を知ることは、ただ真我であることで、それ以外に存在するものはなくなります。これが真我実現です。

ヴェーダーンタに関する数々の本を読み続けても、本が言うのは、「真我を悟りなさい」ということだけです。真我は本の中には見つかりません。自分自身の中に自分自身で、真我を見つけなくてはなりません。

ハートの蓮華を住処(すみか)として、そこに“私”として輝く神は、洞窟の神として讃えられます。修行の力によって、「我は彼なり、我は洞穴の神(グヘーシャ)なり」という感覚が、「自分は肉体の中に確立した自我である」という現在の認識と同じ程にしっかりと確立するならば、そして洞穴の神としてのあなたが現前するならば、自分が滅びゆく肉体であるという錯覚は、日の出前の闇のように消え失せるでしょう。

真のカルマ、ヨーガ、バクティ、ギャーナは、それぞれカルマを行うもの、ヨーガによる再統合を求めるもの、神からの分離を感じるもの、無知でいるものが誰なのかを見つけることにあります。こうしたすべては、“私”なくして存在しません。ですから、“私”として留まることが、真理なのです。

自分自身を行為者と見なせば、こうした行為の結果も享受することになるでしょう。行為をするのが誰なのかを探求すれば、真我を悟って、自分が行為者だという感覚がなくなります。それに伴って三種類のカルマ(サンチタ、アーガーミ、プララーブダ)もすべてなくなります。これが永遠のムクティ、解放の状態です。

我々の本質は、ムクティです。常に自由なのに、自分が束縛されていると想像して、自由になろうと懸命に挑むのです。これはその段階に達したときにしか理解できません。自分が常にそうであったもの、今なおそうであるものに至ろうとして躍起になっていたことに驚くでしょう。次の例がこれを明確にしてくれるでしょう。ある人がこのホールで眠りに落ちたとしましょう。世界旅行に出た夢を見て、丘、谷、森、田舎、砂漠、海を彷徨い、様々な大陸を渡って、強行軍の旅に疲れ果ててこの国に戻り、ティルヴァンナーマライにたどり着いて、アーシュラムに入って、ホールに歩いて来ます。その瞬間に目覚めて、自分は全く動いてはおらず、横になって眠っていたことに気づくのです。大奮闘の末にホールに帰還したのではなく、今いるホールにそれまでもずっといたのです。まさにこれと同じことなのです。「自由でありながら、なぜ束縛されていると想像するのでしょうか?」と尋ねられたら、「ホールにいながら、丘や谷や砂漠や海を渡って、世界を冒険する旅に出かけたのはなぜですか?」と私は応えます。すべては心、すなわちマーヤーなのです。

(翻訳:T.D.)


Ramana Periya Puranam
帰依者75人の内なる旅

カーヴィヤカンタ・ガナパティ・ムニ vol.1

Kavyakantha Ganapati Muni

19世紀の終わり頃、ベンガル地方はナヴァディープでのことだった。14歳の少年が、数学者、詩人、音楽の大家、占星学者その他一同の学者に囲まれて座っていた。数学者達は、6桁同士の掛け算をさせた。ある詩人は、サンスクリット語の詩節から最後の二行を詠じた後、同じ韻律で最初の二行を吟じるように挑んだ。また別の詩人は、サンスクリット語の四行詩を即興で書かせるための主題を与えた。占星学者は、惑星の位置の複雑な組み合わせを示して、その影響がどう出るかを尋ねた。音楽家は、特に知られていないラーガ(インド古典音楽の旋法)から二、三の音階をハミングして、どのラーガかを当てさせた。別の男は、例えば1756年2月18日などのように無作為に日付を選んで、その日に何が起こったのか尋ねた。更にこうして質問を浴びせかけられている少年の後ろには、これでもかと言わんばかりに、別の者が立って小石を背中に投げつけてきた。少年は解答しながら、それと同時に投げつけられる小石を数え続けることも要求されたのだった。すべての難問に鮮やかに即答した少年は、度肝を抜かれた観衆から割れるような喝采を浴びた。

この驚異の天才少年カーヴィヤカンタ・ガナパティ・ムニ(ムニとは、マナナすなわち沈思黙考する者の意味)は、やがてインド中で称賛を浴びることになり、後には、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハリシの抜きん出た弟子の一人となるのだった。子供に恵まれなかった彼の敬虔な父親は、ベナレスにあるガネーシャの寺院を詣でて、子供を授かるように祈った。すると、その神像が生命を宿して自分と溶け合うヴィジョンを見たのだった。そしてまさにこの時間、村にいた妻は、地元の寺にある女神像が光となって、自分の中に入ってくるのを見たのだった。その後間もなくこの夫婦に生まれた息子は、ガネーシャ神への感謝を込めて、ガナパティと名付けられた。

ところが大変残念なことに、この子供はまったく話をすることができなかった。5歳になるまで口がきけず、無表情だった。更に、癲癇(てんかん)を含めた多くの病気にも悩まされた。治療に必死になった両親は、真っ赤に熱した鉄の棒を体に押し当てるという昔ながらの荒療治に訴えた。するとこの治療が殊の外の功を奏した。このショックが少年の潜在的な才能を一気に開花させて、稀有の秀才となったのだ。記憶力、集中力、文献の吸収力、一語一句違わず引用する能力が、著しく強化されたのだった。9歳までにサンスクリット語の文献をマスターして、11歳では4つのヴェーダとウパニシャッドのすべてを暗記していた。14歳の時には、今なおサンスクリット語最高傑作と称される戯曲を書き残している。  古代の聖典には、「苦行を行じた古(いにしえ)のリシ達の前に、神が現れて願い事を叶えた」と記されている。この原典から強く影響を受けたカーヴィヤカンタは、自分も同じ願いを叶えたいと思った。18歳で結婚はしたが、神のダルシャンを受けたいという熱意は高まるばかりだった。長い巡礼に出ると、ガンガーなどの聖なる川のすべてを巡り、寺院を詣でて苦行を行った。その苦行は過酷なものだった。長時間沈黙のまま不動の姿勢に留まり、食も絶った。伝統的な苦行の規則をすべて事細かに守った。しかし神が姿を現わすことはなかった。

古代の聖典には、「苦行を行じた古(いにしえ)のリシ達の前に、神が現れて願い事を叶えた」と記されている。この原典から強く影響を受けたカーヴィヤカンタは、自分も同じ願いを叶えたいと思った。18歳で結婚はしたが、神のダルシャンを受けたいという熱意は高まるばかりだった。長い巡礼に出ると、ガンガーなどの聖なる川のすべてを巡り、寺院を詣でて苦行を行った。その苦行は過酷なものだった。長時間沈黙のまま不動の姿勢に留まり、食も絶った。伝統的な苦行の規則をすべて事細かに守った。しかし神が姿を現わすことはなかった。

ひとつの行法で神を見つけられないと、また次の行法に同じ誠意をもって臨んだ。そしてすべての行法が失敗に終わると、ついに最後の手段に訴えた。それは、シヴァに捧げられた、地、水、火、風、空の五大要素を象徴する五大聖地で苦行をすることだった。それぞれの聖地を特定の順序で詣でた後、最後に火に捧げられた場所、信者の苦行(タパス)が報われるとされるアルナーチャラに到着せねばならなかった。カーヴィヤカンタは各地で必要な儀式に従った後、1904年、ついにアルナーチャラに辿り着いた。アルナーチャレーシュワラ寺院でタパスを行っていた間に、一度丘に登ってバガヴァーンの姿を拝したことはあったが、バガヴァーンは目を閉じてサマディーに浸っていた。バガヴァーンの沈黙にがっかりした彼は、その場を去ったのだった。

カーヴィヤカンタはヴェッロールという隣町で教職に就いて、サーダナを続けたが、1907年には意気消沈して、人生が無駄に思われた。聖典を習得してクンダリーニを経験してはいたが、彼が神と呼んでいたシャクティの源に永遠の拠り所を与えてくれる方法は、まだ見つかってはいなかった。「最後の到達地アルナーチャラにもう一度行って、聖典に従って神を求めよう。それでも神を悟れなければ、『ヴェーダ、ウパニシャッドその他すべてのヒンドゥー聖典は、単に詩人の精神が創り出した誇張表現に過ぎない』と宣言しよう」こう心に決めて、アルナーチャラに戻ったのだった。

アルナーチャラの周囲を巡るギリプラダクシナの道の八つの方角には、それぞれ八つのシヴァ神の寺院が位置している。可能な限りのタパスを行う決心で、彼は南西の方角にあるニルディリンガムに行った。当時この場所は森に囲まれていた。大きな枯れ木の根元にあった空洞に隠れると、沈黙と断食の厳しい苦行を再開した。5、6日経った頃、聖なる母が彼に告げた。「グルに出会うまでは、目標を達成することはできません。お前のグルは丘に上にいます。師の清らかな御足に明け渡すなら、恩寵を授かるでしょう。さあ、行きなさい!」

カーヴィヤカンタは空洞から飛び出した。午後の1時で、灼熱の太陽が照りつけていた。カールティカイ祭の頃で、丘の周囲は多くの人で混み合っていたが、くじけることなく、ヴィルーパークシャ洞窟まで丘を登って言った。すると外に一人で座っていたバガヴァーンが、恩寵の一瞥を注いでくれたのだっだ。それまで多くの帰依者が経験したのと同じように、カーヴィヤカンタもまた釘付けにされて、バガヴァーンから目が離せなくなった。碩学のカーヴィヤカンタは、それまで誰の前にも額ずいたことはなかったが、気がつくと、この若い修行者の前に平伏していたのだった。そしてバガヴァーンの両足を強く掴むと声を上げた。「読むべきものはすべて読みました。ヴェーダーンタを熟読して、納得が行くまでジャパもしました。それでもなおタパスの何たるかを未だ理解していません!ですから、あなたの御足に避難場を求めたのです。どうか、タパスの本質を悟らせて下さい」サンスクリット語の“タパス”という言葉は、文字通りには、“苦行と荒業によって真理を悟るための努力奮闘”を意味している。しかしバガヴァーンは、更に深い意味を伝えた。バガヴァーンはカーヴィヤカンタに手を貸して立ち上がらせると、じっと目を覗き込んで、ゆっくりと応えた。「『私』という思いが立ち上がって来るところを見つめるなら、マインドはそこに吸い込まれます。これがタパスです」それから、マントラ・ジャパ(日々何千回もマントラを繰り返すこと)を実践してきたことを明かしたカーヴィヤカンタに言い添えた。「マントラを繰り返す時、音が生じて来る源を見つめるなら、マインドはそこに吸い込まれます。それがタパスです」

この驚くべき啓示に、カーヴィヤカンタの心は震えた。真理と繋がるための実践的手段を、とうとう理解したのだった。この若き修行者の前にあって、法悦の波が後から後から何時間もの間押し寄せて来た。ようやく目を開けると、師の従者だったパラニ・スワミに、この行者の名前を尋ねた。当時はブラフマーナ・スワミと呼ばれていたが、本当の名前はヴェンカタラーマンだ、ということを知った。カーヴィヤカンタはまず、本名のヴェンカタラーマンから“ラマナ”の部分をとった。そしてこの苦行者の中に神を見たことから、“バガヴァーン“と名付けた。バガヴァーンは、サンスクリット語で神を意味する。更には、どの聖典にも見られなかったタパスに関する明解な啓示を得たことから、彼はまたヴェーダのリシでもあった。(リシとは聖者のことで、 “見る者”を意味する“ドラシュッタ”に由来する。すなわち肉眼だけではなく、内なる目をもって見る者、を意味する。リシとは、無尽蔵の智慧の源泉に繋がった人のこと)しかしカーヴィヤカンタにとってのバガヴァーンは単なるリシではなく、マハルシ、すなわち偉大なリシだった。それゆえ彼はこの行者を、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシと名付けた。称名することによって、無数の人々を不動にして沈黙の真理に引きつけてきたこの名前は、天才カーヴィヤカンタ・ガナパティ・ムニによる命名だったのだ。

次号につづく

(翻訳:T.D.)


Yoga Vasishta

ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我

ラーマは尋ねた。賢者よ。ジーヴァン・ムクタとヴィデーハ・ムクタの特徴は何でしょうか?

ヴァシシュタは答えた。
一見、普通の生活をしているように見えながら、世界全体を虚空として体験している人、それがジーヴァン・ムクタだ。彼は目覚めていながら、深い眠りの静寂を楽しんでいる。彼はまったく快楽と苦痛に影響されることがない。彼は深い眠りの中でも目覚めている。だが、けっしてこの世界には目覚めていない。彼の叡知が心の潜在的傾向によって混乱することはない。彼は好き嫌いや恐れに支配されているように見えるかもしれない。だが、真実の彼は虚空のように自由で、利己主義と意志作用から解放されている。彼の知性は行為していようと無為であろうと影響を受けない。彼は誰をも恐れず、誰も彼を恐れない。時が来て身体を離れたとき、彼はヴィデーハ・ムクタになるのだ。

ヴィデーハ・ムクタは存在する。だが、存在しない。彼は「私」ではなく「他者」でもない。彼は輝く太陽、すべてを維持するヴィシュヌ、すべてを破壊するシヴァ、すべてを創造するブラフマーだ。彼は空、土、水、火だ。彼はすべての生きとし生けるものの本質である普遍的意識だ。過去、現在、未来の中にあるすべて ——— 実にすべてが彼であり、ただ彼だけが存在するのだ。

ラーマは尋ねた。
賢者よ。あなたは無知が終焉したとき真我の知識が得られると言われました。この真我とは何なのでしょうか?

ヴァシシュタは答えた。
創造神ブラフマーから草の葉にいたるまで、すべては真我に他ならない。無知とは存在しないもの、非実在だ。そこに心と呼ばれる別のものが存在するわけではない。真我そのものの中に、(それもまた真我そのものである)ベールが現れ、「主体と客体」という両極をつくり出す。無限の意識そのものが、心と呼ばれるものなのだ。このベールは無限の意識の中に存在する一つの概念、意図あるいは想念だ。心はこの概念や想念から生まれる。そして、心は概念や想念の助けを借りて、概念や想念を破壊させることで消え去らなければならないのだ。

「私は絶対なるブラフマンではない」という頑(かたく)なな確信が、心を束縛する。そして、「すべては絶対なるブラフマンだ」という揺るぎない確信によって、心は解放されるのだ。概念や想念は束縛であり、それらが消滅するときが解放だ。それゆえ、それらから自由になりなさい。そして、するべきことは何でも自発的にするがいい。

概念や想念が空に青さを「見る」ように、心は世界を実在と見る。だが、空に青さはない。視覚能力の限界が、空を青だと見るのだ。同じように、世界の現れを知覚するのは思考能力の限界に他ならない。この世界の現れは錯覚だ。心の中でそれについての考えを起こさせないほうがいい。「私は迷っている」と考えることで、人は苦悩する。そして、「私は気づいている」と考えることで、人は至福に向かうのだ。

いつも惑いながら愚かな考えを抱いている心は、愚かになる。光明に照らされた高潔な考えを絶え間なく抱き続ける心は、光明を得ているのだ。無知な考えが心の中で続いていれば、無知は心の中に確立される。だが、真我が実現されたとき、この無知は消え去る。何であれ心が達成しようと望むものを、感覚はすべてのエネルギーをかけて達成しようと試みるものだ。真我を意識することで、心がそのような想念や概念に溺れないよう努力する人は、静寂と平安を楽しむ。

はじめから存在していなかったものは、今も存在していない。存在していたものは、今も存在している。それが絶対なるブラフマンだ。これに瞑想することが平安を与える。なぜなら、そのブラフマンこそが平安だからだ。いつであれどこであれ、これ以外のものに瞑想してはならない。そして、人は最大限の力で、最大限の知性を使って、快楽への期待そのものを根こそぎにしなければならないのだ。

老いと死の原因は、ただ無知にのみある。希望や執着は、無知である精神的条件づけのせいで起こる。この影響は、「これは私の財産だ」や「これは私の息子だ」といった考えを生み出す。この空っぽの物質的身体のどこに「私」と呼ばれるものが存在するというのか? ラーマよ。実際は「私」や「私のもの」などといった概念はまったく存在しない。ただ一なる真我だけが真理なのだ。

無知の状態の中でだけ、人はロープの代わりに蛇を見る。光明を得た状態では、そうは見ない。光明を得た視野の中には、ただ無限の意識だけが存在し、他には何もない。ラーマよ。無知な人間になってはならない。聖者になりなさい。世界の現れを起こさせる精神的条件づけを破壊しなさい。なぜ無知な人のように、この身体を自己と見なして惨めになるのか? 身体と自己は一緒に存在しているように見えるかもしれないが、それらは別なのだ。たとえ身体が死んでも真我は死なないからだ。

ラーマよ。「絶対なるブラフマンだけが存在する」という真理を忘れ、存在さえしない無知に人々が確信を抱くのは何と不思議なことだろうか? 無知の存在という愚かな考えを根づかせてはならない。なぜなら、意識が無知で汚されると、果てしない苦しみを招くからだ。それは非実在であるにもかかわらず、現実の苦しみをもたらす。蜃気楼や空を飛ぶような幻覚や、天国や地獄を体験するのは無知のせいだ。それゆえ、ラーマよ。二元的知覚の原因である精神的条件づけを放棄して、完全に無条件な状態にとどまりなさい。そうすれば、あなたはすべてに勝る、類い稀な、至高の真我に到達するだろう。

次号につづく

(翻訳 I.H.)
ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我 より抜粋
ナチュラル・スピリット社より2019年刊行予定


Ramana Satsang
ラマナ・サットサンの勧め

ラマナ・サットサンとはシュリー・ラマナ・マハルシの帰依者の集まりで、シュリー・ラマナの臨在を体験することが目的です。誰でもその地域で自宅を開放してサットサンを運営することができます。サットサンのモデル形式は次のような組み立てになっています。

皆さんの地域ですでにサットサンが行われている場合は、SILENCE宛てに住所や連絡先をお送りください。


ラマナ・サットサン連絡先

既存のサットサンの日時や場所を確認してこ参加下さい。

  • 大阪(梅田)服部 正  Tel. 06-6314-3211 / Email: t-yogi17@emobile-s.ne.jp
  • 埼玉(所沢)村山 宗閑 Tel. 090-5453-9551 / Email: suisei.77@gmail.com
  • 東京(渋谷)佐藤 宗一 Tel. 080-3709-9961 / Email: soicsa@gmail.com
  • ラマナ アルール瞑想室 in Tokyo(http://ramana-Arul.tokyo

編集 / 翻訳 崎山綾子・ダムール貴子・鈴木らん